自分で自分を愛していれば、他者からの反応や愛に振り回されないということがわかってきた。
今まではお店で店員さんに、ちゃんとお客として最低限の礼節を持っているのに、なんでそんなに不愛想?適当?いらっしゃいませ、ありがとうございました、言われてなくない?私だけ豚丼の肉の盛り方少なくしたのはなんで?これじゃ豚丼じゃなく玉ねぎ丼じゃないか。などと逐一気にしては、ひどい!とひそかに傷ついてきたけれど、それらどうでも良くなってきた。
他者がどのように振舞おうが、それはその人の問題であり、私には問題がないのだから。
私がお願いします、ありがとうございます、と言って相手から同じだけの礼儀が返ってこなくてもそれでいい。
その人はその人のやるべき仕事を最低限した、私もやるべきことをした。ただそれだけのこと。
自分で自分を大切にと思えてからは夫からもどう思われてもいいや、と思えるようになり、夫から評価されたい大事にされたいともがき苦しんだ日々が嘘のように、むしろ夫にそれを求めることすらもおこがましく感じるようになり、私のことをどう思うかは勝手にしてくださいと流せるようになりました。
だってよくよく考えたら、他者に「自分を愛してくれ」「自分を評価してくれ」ってあまりにも尊大な願い事のように感じませんか。無理やりやることではない。お願いされてすることでもない。自然に生まれるものではないですかね?
藤井風さんの『満ちてゆく』という歌詞の一文が身に染みたんです。
“愛される為に 愛すのは悲劇 カラカラな心にお恵みを”
自分で自分を愛していなくて、他者からの愛で自分を満たそうとしても永遠に満たされることはないんです、だって他者は消えます、別れがあります、コントロールできません。
自分に注ぐ愛の蛇口を他人に委ねてはいけないんです、他人がその蛇口を閉めたらもうおしまい。
自分で蛇口をひねればいいんです、そうすればいつでも自分が潤うことができる。
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ずっと自分は欠けた存在で、どこかに自分の片割れがあると思ってきた。
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のストーリーのように。
夫に出会ってこの人こそがそうだと思ったのに、同棲、結婚、出産でその思いは散った。
そうして今、自分で自分を愛せるようになってからは、欠乏感は失くした誰かではなく自分自身だったのではないかということに思い当たり、私は私と出会うことで満たされた。
他者に愛して欲しいと願うよりも、
「愛したければ勝手にどうぞ。」
そう言えるくらい自分自身で満ち足りよう。
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